アウエルンハンマーとモーツァルト
大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩
1781年3月16日、モーツァルトは、ザルツブルク大司教ヒエローニュムス・コロレードの命に従い、ヴィーンに赴いた。翌日に書かれた父への手紙の中で、ヴィーンに無事到着したが、食事は、料理人や菓子職人と一緒の末席で取らねばならず、食卓では下品でばかばかしい冗談が交わされるので、食事中はひと言も口をきかないで食事が終わるとすぐ引き上げていると報告している。3月24日付の父への手紙に、実際に送られたのは28日以降であるが、ヴィーンでクラヴィーアの最初の弟子となるアウエルンハンマーの名前が初めて登場する。
天気がよくなり次第、フォン・アウエルンハンマー氏とその肥満令嬢の邸に行きます。
ヨハン・ミヒャエル・フォン・アウエルンハンマー氏はオーストリアの実業家で、モーツァルトがヴィーン到着早々に訪問していることから、父レーオポルトと親交があったのであろう。モーツァルトの手紙によると、アウエルンハンマー氏は、1782年3月22日の午後6時半に亡くなるまで、何度かザルツブルクのレーオポルトと手紙のやり取りをしていた。彼の「肥満令嬢」が本日の演奏会のテーマになっているヨゼーファ・バルバラ・アウエルンハンマーである。彼女は、1758年9月25日生まれ、モーツァルトの2歳年下である。モーツァルトの弟子になるまでは、ゲオルク・フリードリヒ・リヒター、ないしヨーゼフ・リヒターというヴィーンの音楽家に学んでいた。モーツァルトの死後はレーオポルト・アントーン・コジェルフの門下に入っている。1781年6月8日、モーツァルトは、アルコ伯爵にお尻を足蹴にされて戸口から追い出され、ザルツブルクの宮廷から解雇された。これで晴れて自由の身になったモーツァルトは、音楽の都ヴィーンでの活動を本格的に開始したのである。
1781年6月27日付の父に宛てた手紙にアウエルンハンマー嬢のことが詳細に述べられている。
ぼくはほとんど毎日、昼食後、アウエルンハンマー氏の家に行きます。――その令嬢ときたら化け物のようなブスです!――でもうっとりとさせるような演奏をします。ただ彼女には、カンタービレで弾く、本当の繊細な歌う様式が欠けています。彼女はなんでも爪弾きしてしまうのです。――彼女は自分の方針を(こっそり内緒で)打ち明けてくれました。それは、あと2、3年みっちり学び、それからパリに行って、音楽を職業とする、というものです。――彼女は言いました。「私は美しくありません。ああ、それどころか醜いです。年収3~4000グルデンの官庁のお偉方などと結婚したくはないし、他の男を手に入れるなんてできそうもない。だから、このまま独りでいて、自分の才能で生きて行きたいんです」と。これはもっともなことです。そこで彼女は、その計画を実現するために、ぼくの助けを求めたわけです。――でも彼女はあらかじめそれを誰にも打ち明けたくないのです。
オペラは、なるべく早く送ります。トゥーン伯爵夫人がいまだに持っていて、目下、彼女は田舎にいます。――ともあれ変ロ長調の四手のためのソナタと、二台のクラヴィーアのための協奏曲二曲を写譜して――至急送ってください。
8月22日付の父への手紙には、レーオポルトが信頼を寄せているアウエルンハンマー一家のことがこと細かく記されている。父親のヨハン・ミヒャエルは、お人よしで自分のことと娘のことしか頭になく、奥さんのエリーザベト(旧姓フォン・ティンマー)は、世にも愚かでばかげたおしゃべり女である。亭主は奥さんの尻に敷かれている。モーツァルトと一緒に辻馬車に乗ったことやビールを飲んだことなどは女房の前で言わないでくれと頼む人だと描かれている。その手紙の中で、「うんざりする」アウエルンハンマー嬢のことが延々述べられている。
もし画家が悪魔をありのまま描こうと思ったら、彼女の顔を頼りにするにちがいありません。――彼女は田舎娘のようにデブで、汗っかきで、吐き気を催すほどです。――肌をまる出しで歩きまわっているので、――「ねえ、こっち見てよ」と、顔にちゃんと書いてあるみたいです。もう、見るのも沢山。盲目になりたいものです。でも――運悪くそっちに目を向いてしまうと、あと一日中、ひどい目に会います。――その時は酒石(注: 吐剤として用いられていた)が入り用です!――それくらい嫌らしく、汚らしく、身の毛のよだつような人です!――ああ、こん畜生め!――
ところで、彼女がどんなにクラヴィーアの演奏をするか――どうしてぼくに手助けしてほしいと頼んだかについては、もう書きましたね。――ぼくは人のためになることなら喜んでしますが、絶えず悩まされるのはごめんです。――彼女はぼくが毎日2時間、一緒に過ごしても満足しません。彼女はぼくに一日中そこに坐っていてほしいと言います。――ぼくは冗談だと思っていましたが、いまでは本気だということが分かります。――たとえば、ぼくが、いつもより少し遅れてきたり、ゆっくりしていられなかったり、そんなようなときに、彼女はやんわりと攻めるなど――なれなれしい態度をとるので、ぼくはそれと気づいたのです。――彼女をもてあそばないためには、丁重に本心を伝えざるをえませんでしたが、――これは何の役にも立たず、彼女のぼくに対する思いはますます深まるばかりです。
結局、ぼくは彼女が変なことを言い出さないかぎり、丁重に接しましたが、彼女の様子がおかしくなり始めると、ぶっきらぼうな態度をとりました。――そうすると、彼女はぼくの手を取って言うのです。「モーツァルトさん、ねえ、そんなに怒らないで。――あなたがなんておっしゃろうと、あたし、本当に好きなんですもの、あなたが。」
街中の人たちが、ぼくらが結婚するのだと言っています。そして、よくまああんな御面相の娘をぼくが選んだものだと呆れています。そんな話がでると、彼女はいつもそれを笑って聞き流していたそうです。でも、ぼくがある人から聞いたことによると、彼女はこの噂を認めた上で、結婚したら一緒に旅行するのだと付け加えていたのです。――これには腹が立ちました。――そこで、こないだとうとうぼくの本心をはっきりと伝え、ぼくの好意に付け込まないでほしいと言い渡しました。――そして、いまはもう毎日ではなく、一日おきに彼女のところへ行っています。こうして徐々に減らすことになるでしょう。――彼女は勝手に惚れ込んだ愚か娘にすぎません。――なにしろ、ぼくと知り合う前、劇場でぼくの演奏(注: 4月3日、ケルントナートーア劇場で催された演奏会)を聞いて、「あした、あの人あたしの家に来るのよ。そうしたらあたし、彼の変奏曲を彼ぴったりの好みで弾いてあげるわ」と言っていたのですからね。――そういうわけで、ぼくは行ってやりませんでした。うぬぼれた言い方だし――彼女は嘘をついていたのですから。翌日ぼくが行くことになっていたなんて、全くぼくの知らなかったことですよ。
当時のホルンは自然倍音(ド・ド・ソ・ド・ミ・ソ・シ♭・ド・レ・ミ・ファ♯・ソ・・・)しか出せなかったので、ト短調で始められた第一主題から変ホ長調の第二主題に移るときに、調性の異なる一対のホルンがあると常に和声を支えることができる。ヴァンハル、ハイドンはまさにそのような使い方である。しかし、モーツァルト作曲の交響曲第 25 番ト短調KV 183(173dB)のホルンの使い方は、これまでのモーツァルトともヴァンハルやハイドンともまったく異なる。当時のホルンは自然倍音しか出せなかったと述べた。すなわち、G管のホルンで、ソ・シ・レ・ソ・ラ・シ・ドの音を、B管のホルンで、シ♭・レ・ファ・シ♭・ド・レ・ミ♭の音を演奏していた。モーツァルトはこれを巧みに組み合わせて、フィナーレでは、G管のホルンで、『ソ・レ・●―・ラ・ソ・●・ラ・ソ・ラ・レ・ド―・●・ラ・ド・●・ラ・ソ・●・●―・レ・ド・ラ・レ―・●・●―・ラ・レ・ソ―』と演奏させ、B 管のホルンで、『●・●・シ♭―・●・●・シ♭・●・●・●・レ・ド―・●・●・ド・シ♭・●・●・シ♭・ミ♭―・レ・ド・●・レ―・ド・シ♭―・●・レ・●―』と演奏させることで、『ソ・レ・シ♭―・ラ・ソ・シ♭・ラ・ソ・ラ・レ・ド―・(シ♭)・ラ・ド・シ♭・ラ・ソ・シ♭・ミ♭―・レ・ド・ラ・レ―・ド・シ♭―・ラ・レ・ソ―』という旋律が聞こえるようにしている。(●は休符、―は長音) (さらに…)
モーツァルトの自筆譜には、ファゴットは緩徐楽章とメヌエットのトリオにしか使用されていない。交響曲第 25 番ト短調 KV 183 (173dB)以前に作曲された交響曲でファゴットパートがある 3 つの交響曲を見てみると、交響曲第 12 番ト長調 KV 110(75b)は、緩徐楽章にだけ独立したファゴットパートを作曲し、他の楽章にはファゴットの指定はない。 (さらに…)
1786 年 5 月 1 日、ブルク劇場での『フィガロの結婚』の初演の際、バジリオとドン・クルーツィオの二役を演じたアイルランド人の歌手マイケル・ケリーが以下のように伝えている。ケリーは、フィガロの結婚の初演でスザンナ役を演じたナンシー・ストレースと親しかった。ナンシー・ストレースは、当時、兄で作曲家のシュテファン・ストレースとヴィーンに住んでいた。 (さらに…)
ハイドンがアイゼンシュタットのエステルハージの家で副楽長の地位に就いた 1761 年から約 20 年間というもの、彼は、アイゼンシュタットあるいはエステルハーザの寂寥の地で生活し、必然的に独創的にならざるを得なかった。そのような環境の中で生まれたのが、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン作曲の交響曲第 39 番ト短調 Hob.I:39である。作曲されたのはゲットヴァイク修道院に残されている 1770 年の日付をもつ筆写楽譜が作られた 2 年前、すなわち 1768 年と推定されている。従って、ヴァンハルとハイドンは全く同じ頃に 4 本のホルンを持つト短調の交響曲を作曲していたことになる。この時期のエステルハージ家のオーケストラの編成は、ヴァイオリン 4~6、ヴィオラ 2、チェロ1、コントラバス 2、フルート1、オーボエ 2、ファゴット 2、ホルン 4 であった。ロビンス・ランドンは、必要に応じて、教会音楽家から弦楽器奏者、軍楽隊からトランペットと打楽器奏者、さらに街の音楽家が随時加えられたのではないかと考えている。譜表に記入されていない通奏低音楽器としてのファゴットとチェンバロの参加は、ハイドン自身の演奏上の注意書きにもあり、当時の習慣であった。特に緩徐楽章がしばしば二声で構成されていることから(交響曲第 39 番も例外ではない)、チェンバロは不可欠であった。ファゴットはしばしば独立したパートとして譜表に加えられることがあり(交響曲第 39 番以前にはわずか 3 曲であるが、認められる)、ファゴットが独奏する部分と緩徐楽章を除いて常にバスのパートをなぞっていたことがわかる。 (さらに…)
イタリアで発祥した交響曲はヨーロッパ各国で独自の進化を遂げていた。バロック時代は終焉を告げ、新しい時代が幕を開けていた。ヴィーンではメヌエットを加えた 4 楽章の交響曲が作曲され、マンハイムでは新しい楽派が、ロンドンではバッハとアーベルが改革を進めていた。これまでの交響曲は、王侯の広間で心地よい音楽を提供するといった位置づけであったが、内に秘めた苦悩や情熱といった感情を自己表現する「芸術」に改革が進められていた。ヴィーンでそれを目の当たりにしたモーツァルトはかなり衝撃を受けたに違いない。ロビンス・ランドンは、ヤン・ラ・ルーと 18 世紀の交響曲 7000 曲以上を調査した上で、このころのヴィーン楽派による改革の特徴を次のように述べている。 (さらに…)
本日演奏するヨハン・クリスティアン・バッハ作曲の交響曲ト短調 op.6Nr.6 は、1770年頃にアムステルダムで「6 つの交響曲」作品 6 の 6 番目としてその印刷パート譜が出版された。作品 6 の 1 番目の交響曲が 1764 年の作曲であることが判明していることから、このト短調交響曲も、おそらくは、モーツァルトがロンドン滞在中に作曲されたものであると思われる。カルル・ド・ニは、モーツァルトが 1764 年にロンドン郊外のチェルシーで残したスケッチ帳には、ト短調の交響曲の断片 KV 15p があり、そこにはすでに《小ト短調》交響曲 KV 183(173dB)のあらゆる特徴が見出されていると指摘している。モーツァルトの創作と、ヨハン・クリスティアン・バッハのト短調交響曲との関係を考える上で大変興味深い。 (さらに…)
大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩 (第54回定期演奏会より)
1773 年 10 月 5 日、交響曲第 24 番変ロ長調 KV 182(173dA)の作曲からわずか 2日後に交響曲第 25 番ト短調 KV 183 (173dB)が作曲される。これまでのイタリア風序曲とは打って変わり、4 つの楽章からなるかなり大規模な交響曲である。モーツァルトが初めて作曲した短調の交響曲で、そこには「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」の精神が宿る。8 分の 3 拍子のロンドとは全く異なる壮大なフィナーレ。3 度目のヴィーン旅行から帰って来たばかりのモーツァルトに何があったのであろうか。 (さらに…)