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解説

第54回定期演奏会《曲目解説》ト短調交響曲 1/7

2012年4月14日 土曜日

大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩 (第54回定期演奏会より)

 1773 年 10 月 5 日、交響曲第 24 番変ロ長調 KV 182(173dA)の作曲からわずか 2日後に交響曲第 25 番ト短調 KV 183 (173dB)が作曲される。これまでのイタリア風序曲とは打って変わり、4 つの楽章からなるかなり大規模な交響曲である。モーツァルトが初めて作曲した短調の交響曲で、そこには「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」の精神が宿る。8 分の 3 拍子のロンドとは全く異なる壮大なフィナーレ。3 度目のヴィーン旅行から帰って来たばかりのモーツァルトに何があったのであろうか。

 モーツァルトは人生の 3 分の 1 を旅で過ごした。彼は、旅先で出会った音楽家たちからその音楽や文化を吸収し、それを自分の血や肉とした。彼は、1778 年 9 月 11 日、旅先のパリからザルツブルクに住む父に宛てた手紙で、

 「ぼくは断言しますが、旅をしないひとは、(少なくとも芸術や学問にたずさわるひとたちでは)まったく哀れな人間です!(中略)凡庸な才能の人間は、旅をしようとしまいと、常に凡庸なままです。――でも、優れた才能のひとは、いつも同じ場所にいれば、だめになります。

 と、述べている。1764 年 4 月 23 日、8 歳のモーツァルトは家族とともにロンドンに到着した。そこでヨハン・セバスティアン・バッハ(大バッハ)の末っ子(第 11 子)、ヨハン・クリスティアン・バッハと出会う。ヨハン・クリスティアン・バッハはカール・フリードリッヒ・アーベルと 1764 年 2 月から約 20 年に渡って、定期的な演奏会、いわゆるバッハ=アーベル・コンサートを開催した。この演奏会を通して、モーツァルトは彼らの交響曲や協奏曲、室内楽を知ることになった。当時のヨハン・クリスティアン・バッハとモーツァルトの関係を示すものとして、法律家兼自然科学者であったデインズ・バリントンが、1765 年 6 月にモーツァルトの学才をテストしたときの模様を仔細に記述した報告書がある。そこには、次のように記載されている。

 著名な作曲家でありますバッハが、フーガを弾きはじめ、これを突然中断いたしますと、幼いモーツァルトがただちにそれを取り上げ、まことに見事な仕方で仕上げました。

 また、フリードリヒ・メルキオール・フォン・グリム男爵は、1766 年 7 月、「文芸通信」に次のように報告している。

 ロンドンでは、バッハが彼を膝に抱き、二人はこうして暗譜で、交互に二時間もたてつづけに、国王および王妃の御前で、同じクラヴサンで演奏したものであります。

 ロンドン滞在中、父のレーオポルトは高熱と疼痛を伴う重い病気にかかったため、子供たちへの音楽の指導は中断されたが、モーツァルトはバッハから彼がロンドンで確立した新しい形式の交響曲作曲の手ほどきを受ける。そうして生まれたのが、交響曲第 1 番変ホ長調 KV 16と交響曲第 4番ニ長調 KV 19である。最初の交響曲が作曲された経緯を、後年、姉のマリア・アンナ(愛称ナンネルル)が一般音楽新聞(ライプツィヒ、1800年1月 20 日号)で伝えている。

 ロンドンで、私の父があやうく死にかけるほどの病気にかかったとき、私たちはクラヴィーアに触れることは許されませんでした。そこで勉強のために、モーツァルトはあらゆる楽器――とくにトランペットとティンパニを伴う最初の交響曲を作曲しました。私は彼のそばに坐って、この曲を書き写さねばなりませんでした。彼が作曲し、私が写している間、彼は私にこう言ったものでした。《ヴァルトホルンにぴったりのことができるようにぼくに注意してね!》

 


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