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解説

第54回定期演奏会《曲目解説》ト短調交響曲 4/7

2012年4月14日 土曜日

 ハイドンがアイゼンシュタットのエステルハージの家で副楽長の地位に就いた 1761 年から約 20 年間というもの、彼は、アイゼンシュタットあるいはエステルハーザの寂寥の地で生活し、必然的に独創的にならざるを得なかった。そのような環境の中で生まれたのが、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン作曲の交響曲第 39 番ト短調 Hob.I:39である。作曲されたのはゲットヴァイク修道院に残されている 1770 年の日付をもつ筆写楽譜が作られた 2 年前、すなわち 1768 年と推定されている。従って、ヴァンハルとハイドンは全く同じ頃に 4 本のホルンを持つト短調の交響曲を作曲していたことになる。この時期のエステルハージ家のオーケストラの編成は、ヴァイオリン 4~6、ヴィオラ 2、チェロ1、コントラバス 2、フルート1、オーボエ 2、ファゴット 2、ホルン 4 であった。ロビンス・ランドンは、必要に応じて、教会音楽家から弦楽器奏者、軍楽隊からトランペットと打楽器奏者、さらに街の音楽家が随時加えられたのではないかと考えている。譜表に記入されていない通奏低音楽器としてのファゴットとチェンバロの参加は、ハイドン自身の演奏上の注意書きにもあり、当時の習慣であった。特に緩徐楽章がしばしば二声で構成されていることから(交響曲第 39 番も例外ではない)、チェンバロは不可欠であった。ファゴットはしばしば独立したパートとして譜表に加えられることがあり(交響曲第 39 番以前にはわずか 3 曲であるが、認められる)、ファゴットが独奏する部分と緩徐楽章を除いて常にバスのパートをなぞっていたことがわかる。

 1780 年になって、当時支配していたエステルハージ公は、毎冬、しばらくの期間、彼のオーケストラと共にヴィーンに来る習慣を取り入れた。この時以来はじめてハイドンはここを訪れる客となり、モーツァルト一家と知り合うことになる。1782 年 12 月 31 日、モーツァルトは 6 曲からなる弦楽四重奏曲の作曲を始めた。この一連の作品に 2 年越しで取り組み、「まさに、長い辛苦の成果(アルターリアから出版された初版の献辞)」として 1785 年 1 月 14 日に完成した。モーツァルトは 1 月 15 日と 2 月 12 日にハイドンを自宅に招き、これをハイドンに献呈した。ハイドンはそこで大きな感銘を受け、同席したモーツァルトの父レーオポルトに最大級の賛辞を述べた。2 月 16 日、レーオポルトがザルツブルクの娘に宛てた手紙に次のようにある。

 土曜日の晩には、ヨーゼフ・ハイドンさんと、それに二人のティンティ男爵が私たちのところを訪ねてこられ、新作の四重奏曲が演奏されました。でも、すでにある他の三曲につけ加えられた新しい三曲だけが演奏されたのです。これらの曲はたしかにちょっとばかり軽いものですが、構成は素晴らしいものです。ハイドンさんは私にこう言われました。「誠実な人間として神の御前に誓って申し上げますが、御子息は、私が名実ともども知っているもっとも偉大な作曲家です。様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです。」

 1785 年 9 月 1 日、いわゆる「ハイドン・セット」がアルターリアから出版された。そこには以下のような献辞が記されている。

 わが親愛な友ハイドンに
 自分の息子たちを広い世に送り出そうと決心した父親は、当節きわめて高名であり、しかも、幸運にも最上の友となった方の庇護と指導のもとに、彼らを委ねるべきであると考えました。(中略)どうぞ彼らを優しく迎えてくださり、彼らの父ともなり、師ともなり、友ともなってください! いまよりのち、私の彼らに対する父なる権利をあなたにお譲りいたします。したがって、父親の偏愛の目で私に見えなかったかもしれない彼らの欠点を寛大に見守ってくださり、それにもかかわらず、あなたが寄せてくださる心広い友情をこんなにも大切に思う私に対して、いつまでもその友情を持ち続けてくださるよう、切にお願いいたします。
 最愛の友へ

心よりあなたのこの上なく誠実な友
W.A.モーツァルト


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