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解説

第54回定期演奏会《曲目解説》ト短調交響曲 3/7

2012年4月14日 土曜日

 イタリアで発祥した交響曲はヨーロッパ各国で独自の進化を遂げていた。バロック時代は終焉を告げ、新しい時代が幕を開けていた。ヴィーンではメヌエットを加えた 4 楽章の交響曲が作曲され、マンハイムでは新しい楽派が、ロンドンではバッハとアーベルが改革を進めていた。これまでの交響曲は、王侯の広間で心地よい音楽を提供するといった位置づけであったが、内に秘めた苦悩や情熱といった感情を自己表現する「芸術」に改革が進められていた。ヴィーンでそれを目の当たりにしたモーツァルトはかなり衝撃を受けたに違いない。ロビンス・ランドンは、ヤン・ラ・ルーと 18 世紀の交響曲 7000 曲以上を調査した上で、このころのヴィーン楽派による改革の特徴を次のように述べている。

  • 短調の使用により、「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」の精神が端的に反映されている。
  • 対位法技術の頻繁な使用により、主題動機、和声構造など、その至る所に緊張感があふれている。
  • シンコペーションが非常に重要な構成要素になっている。
  • フィナーレに創意が一層凝らされ、より念入りに展開される。4 分の 2 拍子や 8 分の3 拍子よりも、アラ・ブレ―べ(2 分の 2 拍子)や 4 分の 4 拍子が好まれる。
  • 広い音程に基づく主題の動機が使われる。
  • バスの 8 分音符にヴァイオリンの 16 分音符の刻みがかぶさる。
  • 主題はしばしばユニゾンで奏される。

 モーツァルトが 3 度目に訪れたヴィーンで活躍していたのはヨーハン・バプティスト・ヴァンハルである。ヴァンハルは、1739 年 5 月 12 日にボヘミアのネハニーツェで生まれ、1760~1761 年頃、ヴィーンに来てカール・ディッタース(後のフォン・ディッタースドルフ)に作曲を師事する。1769 年 5 月から 1770 年 9 月までイタリアで過ごした後、ヴィーンに戻った。その後、クロアチアのバラジュディンなどにも移り住んだが、1785 年以降はヴィーンに定住し、作曲家、音楽家として活躍した。ヴァンハルの名声はウィーンに留まらず、多くの筆写譜や出版譜の形でヨーロッパ中に広まっていた。1768 年ヴィーンの新聞に「最高のマイスター」としてハイドン、クリスティアン・バッハ、ヴァーゲンザイルとともにヴァンハルの名前が挙げられている。晩年は精神疾患を患って、1813 年 8 月 20 日、74 歳で亡くなった。

 本日演奏するヨーハン・バプティスト・ヴァンハル作曲の交響曲ト短調 Bryan g1 は、1771 年のブライトコプフ社のカタログに現れる。正確な作曲年は不明であるが、ポール・ブライアンは残された楽譜とその作風から 1767~1768 年の作曲と推定している。全楽章を通して上述した「ヴィーン楽派による改革の特徴」が認められる。速い楽章で聞かれる内声部の途切れることのないシンコペーション。広い音程の主題、バスの 8 分音符に重ねられたヴァイオリンの 16 分音符の刻み。是非演奏会で確かめていただきたい。

 ヴァンハルがヴィーンにやってきた 1761 年、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、ヴィーンの南南東 45 キロに位置するアイゼンシュタットのエステルハージ公爵家の副楽長に就任した。1766 年 3 月には、楽長に昇進。その頃、公爵が不在の間は、「アイゼンシュタットの高官室において、毎週、火曜日と木曜日の二回、午後 2 時から 4 時まで、全音楽家によって演奏会(アカデミー)を催すこと」が義務付けられていた。

 ハイドンは伝記作者グリージンガーに次のように語ったとされる。

 私は世間から隔絶され、私の近くには私の行く手をまごつかせたり惑わしたりするような人はおらず、したがって私は独創的にならざるを得ませんでした。

 エステルハージ家は、ハンガリーの貴族を代表する存在だったが、その地位はハンガリーにおけるハプスブルク家の支配を率先して認めたことによって得られたものであり、ヴィーンでは、彼らは、所詮「ハンガリーの」貴族でしかなかった。つまり、エステルハージ家は、地理的にも精神的にも、ハンガリーのナショナリストとヴィーンの宮廷の間にあって、その均衡の上に立っていた。世間から隔絶されていたのは、ヴィーンの芸術的サークルから排除されていたという文化的な意味以上にハイドンが仕えていた宮廷が政治的、社会的に孤立していたことと関連していたと、伊東は指摘している。


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