大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩 (第53回定期演奏会より)
また少し時代は遡って1771年12月15日。モーツァルト父子はイタリア旅行からザルツブルクに帰郷した。その翌日、モーツァルト家を庇護してきた大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバッハがその74歳の生涯を閉じた。二週間後の12月30日に完成したのが、交響曲第14番イ長調である。管楽器の活躍、対位法の多用、4楽章構成であることなど、これまでの交響曲より規模が大きく、ヴィゼワ=サン=フォアは、イタリア的な要素を残しながらも、「オーストリア風」あるいは「ヴィーン風」の作風になっていると指摘している。 (さらに…)
大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩 (第53回定期演奏会より)
モーツァルト家と親しかった、ジークムント・ハフナー2世は、妹マリーア・エリーザベトの婚礼の前夜祭(1776年7月21日)の音楽を委嘱した。いわゆるハフナー・セレナーデKV 250である。そのわずか4日後、7月25日に姉ナンネルのためにディヴェルティメントKV 251が作曲される。7月26日はナンネルの霊名の祝日で前夜に祝事が行われた。 (さらに…)
大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩 (第53回定期演奏会より)
グルックが死去した1787年といえば、モーツァルトの父レーオポルトが死去した年でもある。5月28日のことだった。10月28日に完成した、父親の死で始まる「ドン・ジョバンニ」KV 527や6月14日に完成した「音楽の冗談」KV 522は、レーオポルトの死と関連付けて語られることが多い。しかし、いずれの曲も父親の死よりずっと以前に作曲に着手されている。 (さらに…)
大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩 (第53回定期演奏会より)
グルックは、華やかな声楽技巧を披露することに重きを置かれていたオペラを「音楽劇」にする、いわゆる「オペラの改革」を行った。改革オペラの代表作である「オルフェオとエウリディーチェ」(イタリア語)は、1762年10月5日、皇帝フランツ1世の命名日にヴィーンのブルク劇場で初演された。皇女マリア・アントーニアにクラヴサンやハープを教えていたグルックは、 (さらに…)
大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩
モーツァルトは、1776年9月4日、マルティーニ神父に送った手紙の中で、「私どもの教会音楽はイタリアのそれとは大いに異なっているばかりか、いっそうそれがつよまり、キリエ、グローリア、クレード、ソナータ・アレピストラ、オッフェルトリオ、あるいはモテット、サンクトゥス、それにアニュス・デイのすべてを含むミサ、さらにもっとも荘厳なミサですら、大司教御自身がじきじきに取り行いますときには、一番長くてさえ45分以上にわたって続いてはならないのです。この種の作曲には特別な勉強が必要であります。それにあらゆる楽器――軍隊用トランペット、ティンパニ等を伴ったミサ曲であることが要求されます。」と述べている。 (さらに…)
大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩
1783年7月、モーツァルトは妻コンスタンツェを伴って父と姉が住む故郷を訪れ、10月26日、聖ペテロ大聖堂で「ハ短調ミサ」を演奏して翌日ザルツブルクを後にした。途中、リンツに立ち寄り、新しい交響曲を作曲して12月ヴィーンに戻った。年が明け、1784年、モーツァルトはヴィーンで自立し、独自の音楽活動を開始する。『1784年2月より1XXX年X月にいたる私の全作品目録-ヴォルフガンク・アマデ・モーツァルト』と題する自作全品目録は、16.5センチ×21.4センチ、44ページからなる縦長のノートブックで、そこには日付、曲目、編成と主題が数小節記されている。日付は、多くの場合完成された日であるが、作曲を開始した日であることもあった。たとえば、 (さらに…)
ピアノ協奏曲第14番変ホ長調KV449とピアノ協奏曲第17番ト長調KV453は、モーツァルトの弟子である、皇王室帝国枢密院代表ゴットフリート・イグナーツ・フォン・プロイヤーの娘、バルバラ・フォン・プロイヤーのために作曲されたため〈プロイヤー協奏曲〉と呼ばれている。このピアノ協奏曲第14番変ホ長調KV449は2月9日に完成したが、アラン・タイソンの自筆譜と使用五線紙の研究では、1782~1783年に作曲された〈ヴィーン協奏曲〉第12番イ長調KV414(385p)、第11番ヘ長調KV413(387a)、第13番ハ長調KV415(387b)と同時期に書き始められたと考えられている。 (さらに…)