モーツァルト劇場、大阪モーツァルトアンサンブル共催
創立35周年記念大阪モーツァルトアンサンブル第69回定期演奏会
日時:2019年6月23日(日)午後4時開演
会場:栗東芸術文化会館さきら 大ホール
曲目:
Cosi fan tutte KV.588 コジ・ファン・トゥッテ(抜粋)演奏会形式
高橋英郎日本語訳詞による
出演者:
フィオルディリージ:四方典子(ソプラノ)
ドラベッラ:中原由美子(メゾソプラノ)
フェランド:蔵田雅之(テノール)
グリエルモ:萩原寛明(バス)
デスピーナ:西村薫(ソプラノ)
ドン・アルフォンソ:萩原次己(バリトン)
通奏低音(ピアノ):掛川歩美
指揮:武本浩
管弦楽:大阪モーツァルトアンサンブル
第61回定期演奏会
日時:2015 年 6 月 27 日 (土)午後2時開演(1時30分開場)
会場:豊中市立アクア文化ホール
(阪急宝塚線「曽根」駅から東へ約300メートル、徒歩約4分)入場料:1,800円
曲目:W.A.モーツァルト
- ディベルティメント 第2番 ニ長調 KV 131
- ホルンと管弦楽のための協奏曲 第1番 ニ長調 KV 412+514 (386b)
- ホルンと管弦楽のための協奏曲 第2番 変ホ長調 KV 417
- 交響曲 第18番 ヘ長調 KV 130
- 小坂 智美 (ホルン独奏)
創立30周年第60回記念定期演奏会
日時:2014 年 12 月 21 日 (日)午後3時開演(2時30分開場)
会場:豊中市立アクア文化ホール
(阪急宝塚線「曽根」駅から東へ約300メートル、徒歩約4分)入場料:1,800円
曲目:W.A.モーツァルト
- フリーメイソンのための葬送音楽 KV 477 (479a)
- 劇音楽「エジプト王ターモス」KV 345 (336a)
- 歌劇「魔笛」よりハイライト KV 620
- ソプラノ:野々村 瞳
- アルト:松田 香奈子
- テノール:孫 勇太
- バス:服部 英生
- 大阪モーツァルト合唱団
- 鈴木 麻里、中村 理子、島田 明里、松本 さくら、加護 翔大、山崎 覚、湯浅 貴斗
第59回定期演奏会
日時:2014 年 6 月 7 日 (土)午後2時開演(1時30分開場)
会場:豊中市立アクア文化ホール
(阪急宝塚線「曽根」駅から東へ約300メートル、徒歩約4分)入場料:1,800円
曲目:W.A.モーツァルト
- 「後宮からの誘拐」 KV 384 より 序曲、アリア(第1番)、行進曲(第5番a)、トルコ近衛兵の合唱(第5番b)、二重唱(第14番)、トルコ近衛兵の合唱(第21番b
- 田園舞曲「戦闘」ハ長調 KV 535
- 6つのドイツ舞曲 KV 571
- 交響曲 第10番 ト長調 KV 74
- ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲 第5番 イ長調 《第二版》 KV 219 + 261
- 交響曲 第35番 二長調 「ハフナー交響曲」KV 385より 終楽章
- 野澤 匠 ヴァイオリン
第58回定期演奏会
日時:2014年1月13日(祝) 午後2時開演(1時30分開場)
会場:豊中市立アクア文化ホール
(阪急宝塚線「曽根」駅から東へ約300メートル、徒歩約4分)入場料:1,800円
曲目:
- K.F.アーベル
W.A.モーツァルト
交響曲(第3番)変ホ長調 KV 18- J.S.バッハ
W.A.モーツァルト
5つのフーガ KV 405- W.A.モーツァルト
アダージョとフーガ ハ短調 KV 546- G.F.ヘンデル
W.A.モーツァルト
「メサイア」 序曲 ホ短調 KV 572- W.A.モーツァルト
J.N.ヴェント
管楽合奏のための「後宮からの誘拐」- J.M.ハイドン
W.A.モーツァルト
交響曲(第37番)ト長調 KV 444
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【参考文献】
Christoph Wolff: Wolfgang Amadeus Mozart, Konzert in Es für zwei Klaviere und Orchester, KV 365 (316a), Bärenreiter Verlag (1979)
Kurt von Fischer: Wolfgang Amadeus Mozart, Variationen für Klavier, Bärenreiter Verlag (1960, Revision 2000 von Dietrich Berke)
Eduard Resser: Wolfgang Amadeus Mozart, Neue Ausgabe sämtlicher Werke, Serie VIII: Kammermusik, Werkgruppe 23: Sonaten und Variationen für Klavier und Violine, Band 2, Bärenreiter Verlag (1965)
Christoph Wolff: Wolfgang Amadeus Mozart, Konzert in Es für Klavier und Orchester, Bärenreiter Verlag (1979)
Manfred Hermann Schmid: Wolfgang Amadeus Mozart, Sämtliche Werke für zwei Klaviere, Bärenreiter Verlag (2007)
Wolf-Dieter Seiffert: Wolfgang Amadeus Mozart, Werke für zwei Klaviere, G. Henle Verlag (1992)
Wolfgang Plath: Wolfgang Amadeus Mozart, Neue Ausgabe sämtlicher Werke, Serie IV: Orchesterwerke Werkgruppe 11: Sinfonien, Band 10, Bärenreiter Verlag (1978)
Neal Zaslaw, William Cowdery:The Cmpleat Mozart, Norton (1990)
Ludwig Ritter von Köchel: Chronologish-thematisches Verzeichnis sämtlicher Tonwerke Wolfgang Amadé Mozarts 8. Auflage, Breitkopf & Härtel (1983)
Alan Tyson: Wolfgang Amadeus Mozart, Neue Ausgabe sämtlicher Werke, Serie X: Supplement, Werkgruppe 33: Dokumentation der Autographen Überlieferung, Abteilung 2: Wasserzeichen-Katalog, Bärenreiter Verlag (1992)
Alan Tyson: Mozart, Studies of the Autograph Scores, Harvard University Press (1987)
Jean-Pierre Marty: The Tempo Indications of Mozart, Yale University Press (1988)
オットー・エーリヒ・ドイチュ,ヨーゼフ・ハインツ・アイブル 編,井本晌二 訳: ドキュメンタリー モーツァルトの生涯,シンフォニア(1989)
大宮眞琴:ピアノの歴史,音楽之友社(1994)
ウリ・モルゼン編,芹澤尚子訳:文献に見るピアノ演奏の歴史,シンフォニア(1986)
久元祐子: モーツァルトはどう弾いたか,丸善ブックス(2000)
久元祐子: モーツァルトのピアノ音楽研究,音楽之友社(2008)
伊東信宏 編: ピアノはいつピアノになったか?,大阪大学出版会(2007)
海老沢敏,高橋英郎: モーツァルト書簡全集V,白水社(1995)
海老沢敏,高橋英郎: モーツァルト書簡全集VI,白水社(2001)
そのようなわけで、今回はお許しいただきたいのです。もし貴女様にお認めいただけるのでしたら、来週の火曜日、ぼくら二人そろってご挨拶に伺い、敬意を表明し、そしてフォン・アウエルンハンマー嬢に浣腸をいたすことにしましょう。もし彼女がきちんと自分の部屋を閉じたりしなければの話ですが。
この手紙は、「アウエルンハンマー嬢にチュチュを一つ贈ります。でも、それはぼくの知らないうちにね。さもないと、とたんにぼくは吐気を催します。」で締めくくられている。その後、アウエルンハンマーとは1782年11月3日にもケルントナートーア劇場で共演している。それ以降、モーツァルトと共演した記録は残っていないが、1789年4月16日に妻へ宛てた手紙にアウエルンハンマーの名前が登場することから、1782年以降も共演する機会があったのではないかと思われる。
1781年11月23日、アウエルンハンマー邸で行われた演奏会にヴァン・スヴィーテン男爵が来ていた。ヴァン・スヴィーテン男爵と親交をもったモーツァルトは、1782年4月10日付の父への手紙にバロック音楽を勉強していることを伝える。
ヘンデルの6つのフーガと、エーベルリーンのトッカータとフーガも一緒に送ってください。――ぼくは毎日曜日、12時に、ヴァン・スヴィーテン男爵のところへ行きます。――そこでは、ヘンデルとバッハ以外は何も演奏されません。――
ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。ゼバスティアンの作品だけでなく、エマーヌエルやフリーデマン・バッハのも含めてです。――それからヘンデルのも。そして、・・・・・・・だけが欠けています。――男爵にはエーベルリーンの作品を聴かせてあげたいのです。――イギリスのバッハが亡くなったことはもう御存知ですね?――音楽界にとってなんという損失でしょう!
10日後の4月20日にも姉への手紙に、ヴァン・スヴィーテン男爵がヘンデルとゼバスティアン・バッハの作品を(モーツァルトが彼に弾いて聴かせたあと)全部、家に持ち帰らせてくれることを伝えている。コンスタンツェはそのフーガを聞くとすっかり夢中になり、彼女がしきりにせがむので、前奏曲と三声のフーガ ハ長調 KV 397 (383a)を作曲することになったという。その曲を姉に送っている。
この曲はあまり速く弾いてほしくないので、わざわざアンダンテ・マエストーソと記しておきました。――フーガはゆっくり演奏されないと、テーマが出てきたときに、それをはっきり聴き分けられないし、その結果、効果がまったくなくなってしまうからです。・・・(中略)・・・もし、パパがエーベルリーンの作品をまだ写譜してもらっていなかったら、そのほうがかえってよかったと思います。――ぼくのほうでもそれを手に入れたのですが――今になって、いままで忘れていたのですが――この曲は残念ながらヘンデルやバッハのものと並べるにはあまりに陳腐な作品であることが分かったからです。あの四声の作曲法をみると――彼のクラヴィーア・フーガは長たらしいヴァーセットにすぎません。
その後モーツァルトは、バッハのフーガを研究し、おびただしい数のフーガの作曲を試みた。1783年12月6日、12月24日にも父に宛てた手紙で、ゼバスティアン・バッハやエマーヌエル・バッハのフーガを送ってほしいと伝えている。そして、ついに1783年12月29日、バッハ一族のフーガを知り尽くしたモーツアルトが至高のフーガを完成させる。それが、2台のクラヴィーアのためのフーガ ハ短調 KV 426である。モーツァルトの自筆譜の表紙には、Fuga a Due Cembali の題と共に di Wolfgango Amadeo Mozart mpia Vienna li 29 decembre 1783と記されている。ちなみに最後の数字は2を3に訂正した跡があり、第一チェンバロの左手はテノール記号で書かれている。これはバロック時代の習慣に倣ったもので、ヴァン・スヴィーテン男爵のサークルを意識したものと考えられている。1788年、ヴィーンのフランツ・アントーン・ホフマイスターから出版された際には、ヘ音記号に改められた。ちなみにこの曲には強弱記号が全く付けられていない。モーツァルトは、コンスタンツェの実家にあった2台のフリューゲルを念頭に、あえてチェンバロのために作曲したのではないかと考えられる。
1788年6月26日、1784年2月から記録を始めた自作の全作品目録に、一つの曲が加えられる。「私がかなり以前に2台のクラヴィーア用に書いたフーガのための2つのヴァイオリン、ヴィオラ、バスによる短いアダージョ」である。原語では、Ein kurzes Adagio. à 2 violini, viola, e Baßo, zu einer fuge welche ich schon lange für 2 klaviere geschrieben habe. と記載されていて、弦楽四重奏の体裁になっている。ところが、フーガの110小節以降のBaßoパートは VioloncelliとContrabassi (それぞれVioloncello、Contrabassoの複数形)が分けて記載されており、複数のチェロとコントラバスを含む弦楽オーケストラを意識して作曲されたことがわかる。編曲にあたっては、第1クラヴィーアの右手を第1ヴァイオリン、左手をヴィオラに、第2クラヴィーアの右手を第2ヴァイオリン、そして左手をバスに担当させて、その楽器順に書き出したが、8小節を書いたところでこれらを削除し、通常通り、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、バスの順に書き直している。また、フーガのテンポ表示はAllegro Moderatoと記載されたが、後でModeratoが激しく消されている。これは何を意味するのであろうか。プレリュードとフーガ ハ長調 KV 397 (383a) の演奏に際し、モーツァルトが姉に伝えたように、フーガは速く弾いてはならない、ということを言いたかったのであろうか。しかし、AllegroとAllegro Moderatoであれば、一般的には後者の方が遅いテンポである。姉に手紙を送った1782年から6年が経過している。考えに変化があってもおかしくない。彼の心の内面に鬱積した感情を表現するために、逆に速いテンポを指定したとは考えられないであろうか。このころのモーツァルトはヴィーンでの人気も陰りが見え始め、経済状況も悪化してきた。二人の親友、父、長女マリーア・テレージアを相次いで失い、新作の弦楽五重奏曲集(ハ短調KV 406 (516b)、ハ長調KV 515、ト短調KV 516)は売れず、貴族の邸宅での演奏会にも呼ばれなくなっていた。ちょうどこのころからプフベルクにたびたび借金を申し入れるようになっている。しかし、この時期のモーツァルトの創作意欲は極めて旺盛で、精力的に作曲に打ち込んだのは、この時期に数々の名曲が生まれていることからわかる。この曲が作曲された同じ6月26日の日付で交響曲(第39番)変ホ長調 KV 543、小行進曲 ニ長調 KV 544、初心者のための小クラヴィーア・ソナタ ハ長調 KV 545が作曲されている。その後、7月14日には、クラヴィーア、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲 KV 548、7月25日には交響曲(第40番)ト短調 KV 550、8月10日にはモーツァルト最後の交響曲となる(第41番)ハ長調 KV 551が作曲されるのである。
アウエルンハンマーは、1786年に役人のヨーハン・ベッセニヒと結婚し、その後もブルク劇場や内輪の集まりで定期的に演奏会を行った。モーツァルトは彼女にピアノ奏法だけでなく音楽理論や作曲技法も教授していた。彼女は、クラヴィーアのためのソナタのほか、数多くのクラヴィーアのための変奏曲やデュオ、クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ、ドイツ歌曲などを残した。その中でもっともよく知られているのが、モーツァルトのオペラ「魔笛」の第1幕、第2曲パパゲーノのアリア「おいらは鳥刺し」によるクラヴィーアのための6つの変奏曲 ト長調 KV 6 Anh. C 26.18 である。ケッヘル番号(KV)のAnh. Cは、当初モーツァルトのオリジナル作品と考えられた曲が、研究の結果、モーツァルトの作品ではないと判定された、いわゆる偽作であることを意味しており、26はクラヴィーアのための変奏曲が集められている。ちなみにケッヘルカタログにはC 26.18 „Air (620, Nr. 2) varié“ in G-dur: Offenbach, André (von J. Aurnhammer [?]; vgl. Weinmann, Artaria, Pl.-Nr. 373)とだけ記載されている。この曲は、モーツァルトの死後、1793年に出版された。アウエルンハンマーは、1813年3月21日、ブルク劇場において、アウエンハイムの名前で声楽や作曲を教えていた娘マリアンナの共演で、引退公演を行なった。その7年後、1820年1月30日、ヴィーンで没した。62歳だった。
(2013年8月19日)
本日の演奏会では取り上げないが、ここで6つのソナタにも少し触れておこう。1781年5月19日、モーツァルトが父に宛てた手紙の中に「いま、6曲のソナタの予約が進んでいて、それでお金が入ります。」7月25日付の手紙には「アルターリア(楽譜出版商)は、すでにぼくと話し合いをつけました。それが売れしだい、ぼくはお金を手にすることになっていますから、そうしたらそちらに送金します。」11月24日には、「ぼくのソナタ集が出版されましたので、機会があり次第お送りします。」そして、12月15日付の手紙で、「フォン・ダウブラーヴァイクさんが、この手紙と、時計、ミュンヘンのオペラ、印刷された6曲のソナタ、それに2台のクラヴィーアのためのソナタとカデンツァを届けてくれます。」と伝えたのだ。この6曲のソナタとは、ヴァイオリン伴奏つきのクラヴィーア・ソナタで、ヘ長調KV 376 (374d)、ハ長調KV 296、ヘ長調KV 377 (374e)、変ロ長調KV 378 (317d)、ト長調KV 379 (373a)、変ホ長調KV 380 (374f)からなる。このうちKV 296は1778年にマンハイムで、KV 378 (317d)は1779年にザルツブルクで作曲された曲で、6曲中2曲は姉ナンネルルも知っている曲だった。アルターリアから作品Ⅱとして出版された際、アウエルンハンマーは、監修者として校正に携わった可能性が高い。1787年4月23日付のクラーマーの音楽雑誌(ハンブルク)に次のような記載がある。
アウレンハンマー夫人もクラヴィーアを教えていますが、非常に優れた人です。私はもう長いこと彼女の演奏を聞いていません。モーツァルトの多くのソナタや変奏小アリアをアルタリアさんの所で印刷させ校閲したのは彼女です。
聖職者であり音楽家であったマクシミリアン・シュタードラーは、アルターリアが持ってきた初校を、アウエルンハンマーがピアノフォルテを、モーツァルトはヴァイオリンではなく、もう一台のピアノフォルテで弾いたのを聞き、これまでの人生で聞いたことがないくらいすばらしい、生徒と先生の類まれな演奏に魅了されたと回想している。このソナタはアウエルンハンマーに献呈されたので「アウエルンハンマー・ソナタ」と呼ばれている。ソナタ集の標題は、SIX SONATES Pour le Clavecin, ou Pianoforte avec l’accompagnement d’un Violon Dediés A Mademoiselle IOSEPHE D’AURNHAMER par WOLFG. AMADEE MOZART Oeuvre II. Publies, et se vendent chez Artaria Comp a Vienne. Prix f 5.である。
アウエルンハンマーに献呈された曲はもう一曲ある。それは、フランス歌曲「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」によるクラヴィーアのための12の変奏曲 ハ長調 KV 265 (300e)である。1785年、ウィーンのトリチェッラから出版された際、彼女に献呈された。娘が母に自分の想う人のことを打ち明ける作者不詳のシャンソンは、1761年ころからパリで知られるようになり、1770年ころから変奏曲のテーマにしばしば利用された。これまでこの変奏曲は、モーツァルトがパリに滞在していた1778年に作曲されたと考えられていたが、アラン・タイソンが、自筆譜に使用されている二種類の五線紙の透かし模様を調べたところ、1780年~1781年にザルツブルクやミュンヘンで使用されていた五線紙(イドメネーオKV 366にも使用)と1781年にヴィーンで使用されていた五線紙(後宮からの誘拐KV 384にも使用)であることを突きとめ、この変奏曲は、1781年、アウエルンハンマーのために作曲されたと考えられるようになった。11月23日のアウエルンハンマー邸での演奏会でアウエルンハンマー嬢自身により初演されたのかもしれない。モーツァルトが未完で残した二台のクラヴィーアのためのラルゲットとアレグロ 変ホ長調KV deestという曲がある。この作品も1781年秋にアウエルンハンマーと弾くために作曲されたと考えられている。のちにマクシミリアン・シュタードラーが補筆完成した。その他、1782年に作曲されたと推定される二台のクラヴィーアのためのソナタFr 1782b, KV Anh 46 (375b)、Fr 1782c, KV Anh 43 (375c)は、いずれも完成しなかったが、これらもアウエルンハンマーと弾くために作曲されたと考えられている。
ここで楽器のことを少し説明しておこう。クラヴィーア(独)は、キーボード(鍵盤楽器)という意味で、クラヴィチェンバロ(伊)、クラブサン(仏)は、ハープシコード(英)である。ピアノフォルテは、1700年頃にクリストーフォリが発明したグラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテに由来する。モーツァルトは1777年になって初めてアウグスブルクでシュタインのピアノフォルテに出会ったが、ずっと慣れ親しんでいたのはチェンバロだった。ザルツブルク宮廷から追い出されたモーツァルトが最初にやらなければならない仕事はクラヴィーアを手に入れることであった。ヴェーバー家に居候したモーツァルトは、そこに2台のフリューゲル(大型の翼型ハープシコード)があったことを1781年6月27日付の父への手紙に記している。それは、1台は小品を弾くためのもので、もう1台はモーツァルトが1765年、ロンドンで使ったのと同じように、低いオクターヴで調律されたオルガンのような楽器(2段鍵盤のハープシコード)だと伝えている。アウエルンハンマー家にどのようなクラヴィーアがあったのかは不明だが、モーツァルトは1782年1月16日付の父への手紙に、12月24日に皇帝ヨーゼフ2世の前でクレメンティと競演した際、トゥーン伯爵夫人からシュタイン製のピアノフォルテを借りていたことが書かれている。カール・チェルニーが興味深い話を残している。
ベートーヴェンは晩年私に次のように語った。彼はモーツァルトの演奏をしばしばきいたが、当時はまだフォルテピアノの考案が初期の段階で、モーツァルトはその頃、流行のフリューゲルで演奏するのが常であった。しかも、彼の演奏は決してフォルテピアノには適さなかった。・・・モーツァルトの演奏は「繊細であるが、細かく切り刻む演奏で、レガートではなかった。
ベートーヴェンとモーツァルトの音楽スタイルの違いを如実に表していて大変興味深い。さらにモーツァルトの音楽を演奏する際には、極めて示唆に富んだエピソードである。そもそもベートーヴェンが使っていたピアノフォルテは、2本弦ではなく3本弦で5オクターヴと5度(c4-F1)の音域があり、モーツァルトが使っていた軽く明快な響きのピアノフォルテより、和音が豊かに響き、弦の張力も強かったので大きな音量を出すことができた。モーツァルトが所有していたクラヴィーア、すなわち、現在、モーツァルトの生家に展示されているヴァルター製と思われるピアノフォルテを含め、小さなクラヴィコード、スクエアピアノの音域は、全て下一点へ音から三点ヘ音の5オクターヴ(f3-F1)であった。ところが、アウエルンハンマーと弾くために作曲された、二台のクラヴィーアのためのソナタ ニ長調 KV 448 (375a)の第3楽章の98小節目になんとこの音域を超える三点嬰へ音、f#3が出てくるのである。モーツァルトの他のピアノ曲をいくつか調べてみたが、低音はF1、高音はf3を超える曲はないようである。では、この曲に出てくるf#3は、どうやって演奏したのであろうか。ロバート・レヴィンは、アウエルンハンマーは音域の広い新しいピアノフォルテを所有していたと説明している。しかし、モーツァルトがアウエルンハンマーと一緒に弾くために書いた未完の2台のクラヴィーアのためのソナタ3曲にもf3を超える音は使われていない。さらに、アウエルンハンマー自身が作曲した、「おいらは鳥刺し」によるクラヴィーアのための6つの変奏曲 ト長調 KV 6 Anh. C 26.18も、ものの見事にf3までしか使われていないのである。マンフレート・ヘルマン・シュミットは、二台のクラヴィーアのためのソナタ ニ長調 KV 448 (375a)全楽章を通してf3が全く使われていないことから、このソナタの演奏直前にf3の音をf#3にチューニングしておいたのではないかと指摘しているが、その可能性は極めて高いと思う。当時、ほとんどのクラヴィーアの音域は5オクターヴ(f3-F1)だったのだ。演奏会後、この楽譜をザルツブルクの姉に送っているが、ザルツブルクに5オクターヴを超える音域のクラヴィーアがあったことは到底考えられない。とは言うものの、ヴィーン芸術史博物館に残されている1785年頃に製作されたアントン・ヴァルターのピアノフォルテの音域は、g3-F1で、レヴィンの指摘のようにアウエルンハンマーが、この大変珍しい楽器を所有していた可能性を否定するつもりはない。
1782年3月22日にアウエルンハンマーの父親が亡くなると、モーツァルトはレーオポルトシュタットのマルタ・エリーザベト・フォン・ヴァルトシュテッテン男爵夫人のところに彼女が身を寄せられるように便宜を図った。しばしば、モーツァルトは、ヴァルトシュテッテン男爵夫人に手紙をしたためている。1782年9月28日付の手紙を紹介しよう。9月27日に男爵夫人から9月29日(日)の晩餐に招待されたが、アウガルテンでの夕食会の先約を失念していて出席を承知したことを詫びる手紙の一節である。ちなみに1782年8月4日、モーツァルトは初恋の人アロイージア・ヴェーバーの妹コンスタンツェと聖シュテファン教会で結婚式を挙げた。
9月12日付の父への手紙によると、アウエルンハンマーとの演奏会のために劇場でリハーサルを繰り返しており、ザルツブルクで作曲した二台のクラヴィーアのための協奏曲を早く送ってほしいと述べている。9月26日にも催促している。
アウエルンハンマー嬢とぼくは、例の二つの、二台のクラヴィーアのための協奏曲を首を長くして待っています。――救世主の到来を待つユダヤ人みたいに、待てど暮らせど送られてこない、なんてことはないでしょうね。
ようやくモーツァルトが二台のクラヴィーアのための協奏曲の楽譜を手にしたのは、10月12日であった。父への手紙には二台のクラヴィーアのための協奏曲は二つあると書かれている。二つの協奏曲とは(第7番)ヘ長調 KV 242と(第10番)変ホ長調 KV 365 (316a)である。これらの協奏曲のうちいずれか一方が、あるいは、両方が、11月23日、アウエルンハンマー邸で行われた演奏会で取り上げられた。11月24日付の父への手紙に演奏会の模様が記されている。
演奏会には、トゥーン伯爵夫人(この方はぼくが招いたのです)、ヴァン・スヴィーテン男爵、ゴーデヌス男爵、お金持ちでユダヤ教に改宗したヴェツラー氏、フィルミアーン伯爵、そしてフォン・ダウブラーヴァイク氏とその息子が来ました。――ぼくらは二台のクラヴィーアのための協奏曲と二台のクラヴィーア・ソナタを演奏しました。このソナタはぼくがこの演奏会用に特に作曲したもので、たいへんな好評でした。フォン・ダウブラーヴァイク氏を通じて、このソナタをお届けします。彼はこの曲を自分のトランクに入れることを誇りに思うと言ったそうで、ぼくは彼の息子からそれを聞きました。
二台のクラヴィーアのための協奏曲(第10番)変ホ長調 KV 365 (316a)が作曲された経緯についてはよくわかっていないが、1770年代後半に姉ナンネルルと共演するために作曲されたのではないかと考えられている。1881年、ライプツィヒのブライトコップフ・ウント・ヘルテルから出版されたこの協奏曲の両端楽章にはクラリネット、トランペット、ティンパニが追加されているが、これらがいつ誰によって追加されたのか分かっていない。この協奏曲は1782年5月26日にもアウガルテンでの演奏会でもアウエルンハンマーとモーツァルトの独奏で演奏された。クリストフ・ヴォルフは、アウガルテンでの演奏会のためにこれらの楽器が追加されたと考えている。この演奏会はフィーリップ・ヤーコブ・マルティンによって企画されたアウガルテン音楽会の1回目にあたり、プログラムには他にも大編成の管弦楽作品がのせられていたことがその理由である。アウエルンハンマーが、1810年頃にナンネルルに宛てた手紙で、ウィーンの貴族の館でモーツァルトが演奏したピアノ協奏曲について回想している。それによると、モーツァルトは聴衆に背を向けて蓋を外したピアノに座り、オーケストラはピアノの先を取り囲むように半円状に配置されていた。当時のクラヴィーアには蓋を支える棒がないことが多く、室内楽を演奏する時は蓋を閉じ、協奏曲を演奏する時は、蓋を外していたことが、同時期に描かれた絵画からうかがい知ることができる。ちなみに、アウエルンハンマー邸での演奏会のために作曲された「二台のクラヴィーア・ソナタ」は、ニ長調 KV 448 (375a)と考えられている。この自筆譜には、Clavicembalo 1:mo、Clavicembalo 2:doと少し薄い字で記載されている。1784という作曲年を示す書き込みもあるが、これは出版社のヨーハン・アントーン・アンドレによるもので間違いである。アルターリアが1795年、この曲を出版した際のタイトルは、SONATE pour DEUX CLAVECINS OU PIANO-FORTE Composée par W. A. Mozart. Œuvre 34me a Vienne chez Artaria & Comp.であった。
12月15日付けの父への手紙に次のように記載されている。
親愛なお父さん!
12日付のお手紙、たったいま受け取りました。――フォン・ダウブラーヴァイクさんが、この手紙と、時計、ミュンヘンのオペラ、印刷された6曲のソナタ、それに2台のクラヴィーアのためのソナタとカデンツァを届けてくれます。
カデンツァは、おそらく二台のクラヴィーアのための協奏曲(第10番)変ホ長調 KV 365 (316a)のもので、姉に頼まれて楽譜として書き出したものを送ったのであろう。カデンツァは元来、独奏者が即興的に演奏するものであるため、フェルマータ記号が記されているだけで、作曲者が楽譜に書き残すことはなかった。しかし、ロードロン伯爵夫人と二人の娘のために作曲された(第7番)ヘ長調 KV 242(元々、三台のクラヴィーアのための協奏曲であった作品を、1780年9月3日、モーツァルトが姉と弾くために2台のクラヴィーア用に編曲した)には、最初からカデンツァが作曲されていた。この手紙の封筒の裏には、姉宛ての追伸がある。
親愛なお姉さん!
印刷された6つのソナタと、二台のクラヴィーアのためのソナタを送ります。気にいってもらえるといいな。――あなたにとって新しいのは、4曲だけでしょう。変奏曲は、写譜屋がまだうつし終えていないので、次の便で送ります。
ここで述べられている変奏曲について、海老沢は、1781年6月に作曲されたと推定されるグレトリーのオペラ『サムニウム人の結婚』の合唱曲「愛の神」によるクラヴィーアのための8つの変奏曲 ヘ長調 KV 352 (374c)、7月に作曲されたと推定される「羊飼いの娘セリメーヌ」によるクラヴィーアとヴァイオリンのための12の変奏曲 ト長調 KV 359 (374a)、同じく、7月に作曲されたと推定される「ああ、私は恋人を失くした」によるクラヴィーアとヴァイオリンのための6つの変奏曲 ト短調 KV 360 (374b)ではないかと推測しているが、アウエルンハンマーに献呈された「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」によるクラヴィーアのための12の変奏曲 ハ長調 KV 265 (300e)の可能性もあるのではないかと思う。ザルツブルクの家族からモーツァルトに宛てて送られた手紙は失われているが、おそらく姉ナンネルルは、どちらが第一ピアノを弾いたのか尋ねたのであろう。モーツァルトは、1782年1月9日付の父への手紙の追伸で回答している。
追伸 愛するお姉さんに、心から1000回のキスを送ります。――アウエルンハンマー嬢は、二台のクラヴィーアのためのソナタで第一ピアノを弾きました。
アウエルンハンマーとモーツァルト
大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩
1781年3月16日、モーツァルトは、ザルツブルク大司教ヒエローニュムス・コロレードの命に従い、ヴィーンに赴いた。翌日に書かれた父への手紙の中で、ヴィーンに無事到着したが、食事は、料理人や菓子職人と一緒の末席で取らねばならず、食卓では下品でばかばかしい冗談が交わされるので、食事中はひと言も口をきかないで食事が終わるとすぐ引き上げていると報告している。3月24日付の父への手紙に、実際に送られたのは28日以降であるが、ヴィーンでクラヴィーアの最初の弟子となるアウエルンハンマーの名前が初めて登場する。
天気がよくなり次第、フォン・アウエルンハンマー氏とその肥満令嬢の邸に行きます。
ヨハン・ミヒャエル・フォン・アウエルンハンマー氏はオーストリアの実業家で、モーツァルトがヴィーン到着早々に訪問していることから、父レーオポルトと親交があったのであろう。モーツァルトの手紙によると、アウエルンハンマー氏は、1782年3月22日の午後6時半に亡くなるまで、何度かザルツブルクのレーオポルトと手紙のやり取りをしていた。彼の「肥満令嬢」が本日の演奏会のテーマになっているヨゼーファ・バルバラ・アウエルンハンマーである。彼女は、1758年9月25日生まれ、モーツァルトの2歳年下である。モーツァルトの弟子になるまでは、ゲオルク・フリードリヒ・リヒター、ないしヨーゼフ・リヒターというヴィーンの音楽家に学んでいた。モーツァルトの死後はレーオポルト・アントーン・コジェルフの門下に入っている。1781年6月8日、モーツァルトは、アルコ伯爵にお尻を足蹴にされて戸口から追い出され、ザルツブルクの宮廷から解雇された。これで晴れて自由の身になったモーツァルトは、音楽の都ヴィーンでの活動を本格的に開始したのである。
1781年6月27日付の父に宛てた手紙にアウエルンハンマー嬢のことが詳細に述べられている。
ぼくはほとんど毎日、昼食後、アウエルンハンマー氏の家に行きます。――その令嬢ときたら化け物のようなブスです!――でもうっとりとさせるような演奏をします。ただ彼女には、カンタービレで弾く、本当の繊細な歌う様式が欠けています。彼女はなんでも爪弾きしてしまうのです。――彼女は自分の方針を(こっそり内緒で)打ち明けてくれました。それは、あと2、3年みっちり学び、それからパリに行って、音楽を職業とする、というものです。――彼女は言いました。「私は美しくありません。ああ、それどころか醜いです。年収3~4000グルデンの官庁のお偉方などと結婚したくはないし、他の男を手に入れるなんてできそうもない。だから、このまま独りでいて、自分の才能で生きて行きたいんです」と。これはもっともなことです。そこで彼女は、その計画を実現するために、ぼくの助けを求めたわけです。――でも彼女はあらかじめそれを誰にも打ち明けたくないのです。
オペラは、なるべく早く送ります。トゥーン伯爵夫人がいまだに持っていて、目下、彼女は田舎にいます。――ともあれ変ロ長調の四手のためのソナタと、二台のクラヴィーアのための協奏曲二曲を写譜して――至急送ってください。
8月22日付の父への手紙には、レーオポルトが信頼を寄せているアウエルンハンマー一家のことがこと細かく記されている。父親のヨハン・ミヒャエルは、お人よしで自分のことと娘のことしか頭になく、奥さんのエリーザベト(旧姓フォン・ティンマー)は、世にも愚かでばかげたおしゃべり女である。亭主は奥さんの尻に敷かれている。モーツァルトと一緒に辻馬車に乗ったことやビールを飲んだことなどは女房の前で言わないでくれと頼む人だと描かれている。その手紙の中で、「うんざりする」アウエルンハンマー嬢のことが延々述べられている。
もし画家が悪魔をありのまま描こうと思ったら、彼女の顔を頼りにするにちがいありません。――彼女は田舎娘のようにデブで、汗っかきで、吐き気を催すほどです。――肌をまる出しで歩きまわっているので、――「ねえ、こっち見てよ」と、顔にちゃんと書いてあるみたいです。もう、見るのも沢山。盲目になりたいものです。でも――運悪くそっちに目を向いてしまうと、あと一日中、ひどい目に会います。――その時は酒石(注: 吐剤として用いられていた)が入り用です!――それくらい嫌らしく、汚らしく、身の毛のよだつような人です!――ああ、こん畜生め!――
ところで、彼女がどんなにクラヴィーアの演奏をするか――どうしてぼくに手助けしてほしいと頼んだかについては、もう書きましたね。――ぼくは人のためになることなら喜んでしますが、絶えず悩まされるのはごめんです。――彼女はぼくが毎日2時間、一緒に過ごしても満足しません。彼女はぼくに一日中そこに坐っていてほしいと言います。――ぼくは冗談だと思っていましたが、いまでは本気だということが分かります。――たとえば、ぼくが、いつもより少し遅れてきたり、ゆっくりしていられなかったり、そんなようなときに、彼女はやんわりと攻めるなど――なれなれしい態度をとるので、ぼくはそれと気づいたのです。――彼女をもてあそばないためには、丁重に本心を伝えざるをえませんでしたが、――これは何の役にも立たず、彼女のぼくに対する思いはますます深まるばかりです。
結局、ぼくは彼女が変なことを言い出さないかぎり、丁重に接しましたが、彼女の様子がおかしくなり始めると、ぶっきらぼうな態度をとりました。――そうすると、彼女はぼくの手を取って言うのです。「モーツァルトさん、ねえ、そんなに怒らないで。――あなたがなんておっしゃろうと、あたし、本当に好きなんですもの、あなたが。」
街中の人たちが、ぼくらが結婚するのだと言っています。そして、よくまああんな御面相の娘をぼくが選んだものだと呆れています。そんな話がでると、彼女はいつもそれを笑って聞き流していたそうです。でも、ぼくがある人から聞いたことによると、彼女はこの噂を認めた上で、結婚したら一緒に旅行するのだと付け加えていたのです。――これには腹が立ちました。――そこで、こないだとうとうぼくの本心をはっきりと伝え、ぼくの好意に付け込まないでほしいと言い渡しました。――そして、いまはもう毎日ではなく、一日おきに彼女のところへ行っています。こうして徐々に減らすことになるでしょう。――彼女は勝手に惚れ込んだ愚か娘にすぎません。――なにしろ、ぼくと知り合う前、劇場でぼくの演奏(注: 4月3日、ケルントナートーア劇場で催された演奏会)を聞いて、「あした、あの人あたしの家に来るのよ。そうしたらあたし、彼の変奏曲を彼ぴったりの好みで弾いてあげるわ」と言っていたのですからね。――そういうわけで、ぼくは行ってやりませんでした。うぬぼれた言い方だし――彼女は嘘をついていたのですから。翌日ぼくが行くことになっていたなんて、全くぼくの知らなかったことですよ。