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解説

第54回定期演奏会《曲目解説》ト短調交響曲 2/7

2012年4月14日 土曜日

 本日演奏するヨハン・クリスティアン・バッハ作曲の交響曲ト短調 op.6Nr.6 は、1770年頃にアムステルダムで「6 つの交響曲」作品 6 の 6 番目としてその印刷パート譜が出版された。作品 6 の 1 番目の交響曲が 1764 年の作曲であることが判明していることから、このト短調交響曲も、おそらくは、モーツァルトがロンドン滞在中に作曲されたものであると思われる。カルル・ド・ニは、モーツァルトが 1764 年にロンドン郊外のチェルシーで残したスケッチ帳には、ト短調の交響曲の断片 KV 15p があり、そこにはすでに《小ト短調》交響曲 KV 183(173dB)のあらゆる特徴が見出されていると指摘している。モーツァルトの創作と、ヨハン・クリスティアン・バッハのト短調交響曲との関係を考える上で大変興味深い。

 コペンハーゲンで発見されたこの曲の筆写パート譜には、オーボエのパート譜と全く同じフラウト・トラヴェルソ(バロック・フルート)の楽譜と、バスのパート譜と同じファゴットの楽譜が残されている。オーボエの代わりにフルートでも演奏されていたことを示すとともに、ホルンとオーボエが休み弦楽合奏になる緩徐楽章についてもファゴットが使われたことを示している。これは、後述するハイドンやモーツァルトのファゴットの使い方とは異なっている。

 ヨハン・クリスティアン・バッハは、1782 年 1 月 1 日に 46 歳で亡くなった。当時、ヴィーンに住んでいたモーツァルトは、4 月 10 日に故郷ザルツブルクの父に宛てて次のような手紙を送っている。モーツァルトがいかにヨハン・クリスティアン・バッハを敬愛していたかがわかる。

 ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。ゼバスティアンの作品だけでなく、エマーヌエルやフリーデマン・バッハのも含めてです。――それからヘンデルのも。――(中略)――イギリスのバッハが亡くなったことはもう御存知ですね?――音楽界にとってなんという損失でしょう!

 1773 年 7 月 14 日、モーツァルトは父と共にヴィーンに向けてザルツブルクを出発し、20 日頃に到着した。ザルツブルクの大司教、ヒエローニュムス・コロレードが 7 月 31 日にヴィーンに到着していることから、おそらく、コロレードの命により随行することになったのであろう。モーツァルトは 1772 年 8 月 21 日に無給から有給(年棒はわずか 150 グルデン)のコンツェルトマイスターに昇格しており、大司教が食事をするときはバックグラウンドミュージックを演奏する責務があった。コンツェルトマイスターといっても、料理人や門番と同じ使用人で、楽士たちは、台所で料理人たちや召使たちと食事をするような身分であった。父レーオポルトは各地で息子のためによりよい待遇の就職先を見つけようと奔走していた。今回もマリーア・テレージア皇太后に拝謁したが、実は結ばなかった。レーオポルトは、8 月 12 日、落胆した様子をザルツブルクで夫と息子を待つ妻に宛てて書いている。

 皇太后は私たちにとても好意をお持ちでした。でもそれですべてでした。帰ってからお前に直接話すことにしましょう。なんでもみんな書くわけにはいかないから。


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