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解説

アイネ・クライネ・ナハトムジーク ト長調 KV 525

2011年10月9日 日曜日

大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩 (第53回定期演奏会より)

グルックが死去した1787年といえば、モーツァルトの父レーオポルトが死去した年でもある。5月28日のことだった。10月28日に完成した、父親の死で始まる「ドン・ジョバンニ」KV 527や6月14日に完成した「音楽の冗談」KV 522は、レーオポルトの死と関連付けて語られることが多い。しかし、いずれの曲も父親の死よりずっと以前に作曲に着手されている。6月4日には「死んだむくどりを悼む詩」が書かれ、6月24日にリート「夕べの想い」KV 523、「クローエに」KV 524の作曲を経て、8月10日に自作全作品目録に「アイネ・クライネ・ナハトムジーク(小夜曲)アレグロ、メヌエットとトリオ、――ロマンス、メヌエットとトリオ、それにフィナーレよりなる。――ヴァイオリン2、ヴィオラとバス」と書き込まれる。「ドン・ジョバンニ」の創作の合間を縫って作曲されたこのセレナーデ。作曲の動機は不明である。モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世の姪にあたる、弟レーオポルト大公の娘、マリーア・テレージア大公女とザクセン候アントーン・クレーメンス皇子の結婚のお祝いのために委嘱された「ドン・ジョバンニ」の作曲に忙しく、ザルツブルクに帰省して、父を見舞い、葬儀に参列する余裕はなかった。セレナーデやディヴェルティメントを数多く作曲し、家族と過ごした故郷ザルツブルクでの日々を偲んで、この名曲を作曲したのかもしれない。6月14日に完成した「音楽の冗談」KV 522は、自作全作品目録にはヴァイオリン2、ヴィオラ、ホルン2とバスという編成が記載されている。バスは単数形でBaßoと表記されているため、ザルツブルク時代に数多く作曲したセレナーデやディヴェルティメントと同様、「バス」はコントラバスのみで演奏することを想定していると考えられる。1802年にアンドレより出版された楽譜の挿絵にも6名の奏者が描かれている。一方、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」はBaßiと複数形になっていることから、モーツァルトは、チェロとコントラバスを含む小編成の弦楽オーケストラでの演奏を意図したのではないかと考えられている。とはいうものの、弦楽四重奏や弦楽五重奏で演奏することを否定するものではない。第2楽章におかれていたメヌエットとトリオは、自筆譜から切り離されてしまっていて消息不明のままである。モーツァルトの死後、コンスタンツェ未亡人がモーツァルトの自筆譜を裁断して世話になった人やモーツァルト愛好家に譲ったことがあった。この第2楽章も同じ運命をたどったのかもしれない。アイネ・クライネ・ナハトムジーク「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が書かれたころ、モーツァルトは頻繁に姉ナンネルと遺産相続を相談する手紙をやり取りしていた。モーツァルトからナンネルに宛てた8月1日付の手紙で、1000グルテンを帝国貨幣ではなく、ヴィーンのお金で、しかも小切手で支払ってほしいと連絡している。(帝国貨幣の1000フローリンは、ヴィーン通貨の1200フローリンに相当する)9月25日から4日間、レーオポルトの遺品はタンツマイスターハウスで競売にかけられ、1507フローリン56クロイツァーの売上があった。モーツァルトが義兄のゾンネンブルクに宛てた9月29日付の手紙で、為替手形をヴァルゼック伯爵(レクイエムをモーツァルトに委嘱した人物)気付プフベルク宛に送るよう、連絡している。このころすでにプフベルクに借金があったようである。

 

第53回定期演奏会より
アイネ・クライネ・ナハトムジーク ト長調 KV 525
一楽章[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=286uBcRtv_c&feature=youtu.be[/youtube]

二、三、四楽章[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=Nt2aaewtZxM&feature=youtu.be[/youtube]


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