«
»

解説

第57回定期演奏会 《Einführung》
アウエルンハンマーとモーツァルト 3/5

2013年9月9日 月曜日

 本日の演奏会では取り上げないが、ここで6つのソナタにも少し触れておこう。1781年5月19日、モーツァルトが父に宛てた手紙の中に「いま、6曲のソナタの予約が進んでいて、それでお金が入ります。」7月25日付の手紙には「アルターリア(楽譜出版商)は、すでにぼくと話し合いをつけました。それが売れしだい、ぼくはお金を手にすることになっていますから、そうしたらそちらに送金します。」11月24日には、「ぼくのソナタ集が出版されましたので、機会があり次第お送りします。」そして、12月15日付の手紙で、「フォン・ダウブラーヴァイクさんが、この手紙と、時計、ミュンヘンのオペラ、印刷された6曲のソナタ、それに2台のクラヴィーアのためのソナタとカデンツァを届けてくれます。」と伝えたのだ。この6曲のソナタとは、ヴァイオリン伴奏つきのクラヴィーア・ソナタで、ヘ長調KV 376 (374d)、ハ長調KV 296、ヘ長調KV 377 (374e)、変ロ長調KV 378 (317d)、ト長調KV 379 (373a)、変ホ長調KV 380 (374f)からなる。このうちKV 296は1778年にマンハイムで、KV 378 (317d)は1779年にザルツブルクで作曲された曲で、6曲中2曲は姉ナンネルルも知っている曲だった。アルターリアから作品Ⅱとして出版された際、アウエルンハンマーは、監修者として校正に携わった可能性が高い。1787年4月23日付のクラーマーの音楽雑誌(ハンブルク)に次のような記載がある。

 アウレンハンマー夫人もクラヴィーアを教えていますが、非常に優れた人です。私はもう長いこと彼女の演奏を聞いていません。モーツァルトの多くのソナタや変奏小アリアをアルタリアさんの所で印刷させ校閲したのは彼女です。

 聖職者であり音楽家であったマクシミリアン・シュタードラーは、アルターリアが持ってきた初校を、アウエルンハンマーがピアノフォルテを、モーツァルトはヴァイオリンではなく、もう一台のピアノフォルテで弾いたのを聞き、これまでの人生で聞いたことがないくらいすばらしい、生徒と先生の類まれな演奏に魅了されたと回想している。このソナタはアウエルンハンマーに献呈されたので「アウエルンハンマー・ソナタ」と呼ばれている。ソナタ集の標題は、SIX SONATES Pour le Clavecin, ou Pianoforte avec l’accompagnement d’un Violon Dediés A Mademoiselle IOSEPHE D’AURNHAMER par WOLFG. AMADEE MOZART Oeuvre II. Publies, et se vendent chez Artaria Comp a Vienne. Prix f 5.である。
 アウエルンハンマーに献呈された曲はもう一曲ある。それは、フランス歌曲「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」によるクラヴィーアのための12の変奏曲 ハ長調 KV 265 (300e)である。1785年、ウィーンのトリチェッラから出版された際、彼女に献呈された。娘が母に自分の想う人のことを打ち明ける作者不詳のシャンソンは、1761年ころからパリで知られるようになり、1770年ころから変奏曲のテーマにしばしば利用された。これまでこの変奏曲は、モーツァルトがパリに滞在していた1778年に作曲されたと考えられていたが、アラン・タイソンが、自筆譜に使用されている二種類の五線紙の透かし模様を調べたところ、1780年~1781年にザルツブルクやミュンヘンで使用されていた五線紙(イドメネーオKV 366にも使用)と1781年にヴィーンで使用されていた五線紙(後宮からの誘拐KV 384にも使用)であることを突きとめ、この変奏曲は、1781年、アウエルンハンマーのために作曲されたと考えられるようになった。11月23日のアウエルンハンマー邸での演奏会でアウエルンハンマー嬢自身により初演されたのかもしれない。モーツァルトが未完で残した二台のクラヴィーアのためのラルゲットとアレグロ 変ホ長調KV deestという曲がある。この作品も1781年秋にアウエルンハンマーと弾くために作曲されたと考えられている。のちにマクシミリアン・シュタードラーが補筆完成した。その他、1782年に作曲されたと推定される二台のクラヴィーアのためのソナタFr 1782b, KV Anh 46 (375b)、Fr 1782c, KV Anh 43 (375c)は、いずれも完成しなかったが、これらもアウエルンハンマーと弾くために作曲されたと考えられている。
 ここで楽器のことを少し説明しておこう。クラヴィーア(独)は、キーボード(鍵盤楽器)という意味で、クラヴィチェンバロ(伊)、クラブサン(仏)は、ハープシコード(英)である。ピアノフォルテは、1700年頃にクリストーフォリが発明したグラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテに由来する。モーツァルトは1777年になって初めてアウグスブルクでシュタインのピアノフォルテに出会ったが、ずっと慣れ親しんでいたのはチェンバロだった。ザルツブルク宮廷から追い出されたモーツァルトが最初にやらなければならない仕事はクラヴィーアを手に入れることであった。ヴェーバー家に居候したモーツァルトは、そこに2台のフリューゲル(大型の翼型ハープシコード)があったことを1781年6月27日付の父への手紙に記している。それは、1台は小品を弾くためのもので、もう1台はモーツァルトが1765年、ロンドンで使ったのと同じように、低いオクターヴで調律されたオルガンのような楽器(2段鍵盤のハープシコード)だと伝えている。アウエルンハンマー家にどのようなクラヴィーアがあったのかは不明だが、モーツァルトは1782年1月16日付の父への手紙に、12月24日に皇帝ヨーゼフ2世の前でクレメンティと競演した際、トゥーン伯爵夫人からシュタイン製のピアノフォルテを借りていたことが書かれている。カール・チェルニーが興味深い話を残している。

 ベートーヴェンは晩年私に次のように語った。彼はモーツァルトの演奏をしばしばきいたが、当時はまだフォルテピアノの考案が初期の段階で、モーツァルトはその頃、流行のフリューゲルで演奏するのが常であった。しかも、彼の演奏は決してフォルテピアノには適さなかった。・・・モーツァルトの演奏は「繊細であるが、細かく切り刻む演奏で、レガートではなかった。

 ベートーヴェンとモーツァルトの音楽スタイルの違いを如実に表していて大変興味深い。さらにモーツァルトの音楽を演奏する際には、極めて示唆に富んだエピソードである。そもそもベートーヴェンが使っていたピアノフォルテは、2本弦ではなく3本弦で5オクターヴと5度(c4-F1)の音域があり、モーツァルトが使っていた軽く明快な響きのピアノフォルテより、和音が豊かに響き、弦の張力も強かったので大きな音量を出すことができた。モーツァルトが所有していたクラヴィーア、すなわち、現在、モーツァルトの生家に展示されているヴァルター製と思われるピアノフォルテを含め、小さなクラヴィコード、スクエアピアノの音域は、全て下一点へ音から三点ヘ音の5オクターヴ(f3-F1)であった。ところが、アウエルンハンマーと弾くために作曲された、二台のクラヴィーアのためのソナタ ニ長調 KV 448 (375a)の第3楽章の98小節目になんとこの音域を超える三点嬰へ音、f#3が出てくるのである。モーツァルトの他のピアノ曲をいくつか調べてみたが、低音はF1、高音はf3を超える曲はないようである。では、この曲に出てくるf#3は、どうやって演奏したのであろうか。ロバート・レヴィンは、アウエルンハンマーは音域の広い新しいピアノフォルテを所有していたと説明している。しかし、モーツァルトがアウエルンハンマーと一緒に弾くために書いた未完の2台のクラヴィーアのためのソナタ3曲にもf3を超える音は使われていない。さらに、アウエルンハンマー自身が作曲した、「おいらは鳥刺し」によるクラヴィーアのための6つの変奏曲 ト長調 KV 6 Anh. C 26.18も、ものの見事にf3までしか使われていないのである。マンフレート・ヘルマン・シュミットは、二台のクラヴィーアのためのソナタ ニ長調 KV 448 (375a)全楽章を通してf3が全く使われていないことから、このソナタの演奏直前にf3の音をf#3にチューニングしておいたのではないかと指摘しているが、その可能性は極めて高いと思う。当時、ほとんどのクラヴィーアの音域は5オクターヴ(f3-F1)だったのだ。演奏会後、この楽譜をザルツブルクの姉に送っているが、ザルツブルクに5オクターヴを超える音域のクラヴィーアがあったことは到底考えられない。とは言うものの、ヴィーン芸術史博物館に残されている1785年頃に製作されたアントン・ヴァルターのピアノフォルテの音域は、g3-F1で、レヴィンの指摘のようにアウエルンハンマーが、この大変珍しい楽器を所有していた可能性を否定するつもりはない。
 1782年3月22日にアウエルンハンマーの父親が亡くなると、モーツァルトはレーオポルトシュタットのマルタ・エリーザベト・フォン・ヴァルトシュテッテン男爵夫人のところに彼女が身を寄せられるように便宜を図った。しばしば、モーツァルトは、ヴァルトシュテッテン男爵夫人に手紙をしたためている。1782年9月28日付の手紙を紹介しよう。9月27日に男爵夫人から9月29日(日)の晩餐に招待されたが、アウガルテンでの夕食会の先約を失念していて出席を承知したことを詫びる手紙の一節である。ちなみに1782年8月4日、モーツァルトは初恋の人アロイージア・ヴェーバーの妹コンスタンツェと聖シュテファン教会で結婚式を挙げた。

 


«
»