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解説

第57回定期演奏会 《Einführung》
アウエルンハンマーとモーツァルト 4/5

2013年9月9日 月曜日

 そのようなわけで、今回はお許しいただきたいのです。もし貴女様にお認めいただけるのでしたら、来週の火曜日、ぼくら二人そろってご挨拶に伺い、敬意を表明し、そしてフォン・アウエルンハンマー嬢に浣腸をいたすことにしましょう。もし彼女がきちんと自分の部屋を閉じたりしなければの話ですが。

 この手紙は、「アウエルンハンマー嬢にチュチュを一つ贈ります。でも、それはぼくの知らないうちにね。さもないと、とたんにぼくは吐気を催します。」で締めくくられている。その後、アウエルンハンマーとは1782年11月3日にもケルントナートーア劇場で共演している。それ以降、モーツァルトと共演した記録は残っていないが、1789年4月16日に妻へ宛てた手紙にアウエルンハンマーの名前が登場することから、1782年以降も共演する機会があったのではないかと思われる。

 1781年11月23日、アウエルンハンマー邸で行われた演奏会にヴァン・スヴィーテン男爵が来ていた。ヴァン・スヴィーテン男爵と親交をもったモーツァルトは、1782年4月10日付の父への手紙にバロック音楽を勉強していることを伝える。

 ヘンデルの6つのフーガと、エーベルリーンのトッカータとフーガも一緒に送ってください。――ぼくは毎日曜日、12時に、ヴァン・スヴィーテン男爵のところへ行きます。――そこでは、ヘンデルとバッハ以外は何も演奏されません。――
 ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。ゼバスティアンの作品だけでなく、エマーヌエルやフリーデマン・バッハのも含めてです。――それからヘンデルのも。そして、・・・・・・・だけが欠けています。――男爵にはエーベルリーンの作品を聴かせてあげたいのです。――イギリスのバッハが亡くなったことはもう御存知ですね?――音楽界にとってなんという損失でしょう!

 10日後の4月20日にも姉への手紙に、ヴァン・スヴィーテン男爵がヘンデルとゼバスティアン・バッハの作品を(モーツァルトが彼に弾いて聴かせたあと)全部、家に持ち帰らせてくれることを伝えている。コンスタンツェはそのフーガを聞くとすっかり夢中になり、彼女がしきりにせがむので、前奏曲と三声のフーガ ハ長調 KV 397 (383a)を作曲することになったという。その曲を姉に送っている。

 この曲はあまり速く弾いてほしくないので、わざわざアンダンテ・マエストーソと記しておきました。――フーガはゆっくり演奏されないと、テーマが出てきたときに、それをはっきり聴き分けられないし、その結果、効果がまったくなくなってしまうからです。・・・(中略)・・・もし、パパがエーベルリーンの作品をまだ写譜してもらっていなかったら、そのほうがかえってよかったと思います。――ぼくのほうでもそれを手に入れたのですが――今になって、いままで忘れていたのですが――この曲は残念ながらヘンデルやバッハのものと並べるにはあまりに陳腐な作品であることが分かったからです。あの四声の作曲法をみると――彼のクラヴィーア・フーガは長たらしいヴァーセットにすぎません。

 その後モーツァルトは、バッハのフーガを研究し、おびただしい数のフーガの作曲を試みた。1783年12月6日、12月24日にも父に宛てた手紙で、ゼバスティアン・バッハやエマーヌエル・バッハのフーガを送ってほしいと伝えている。そして、ついに1783年12月29日、バッハ一族のフーガを知り尽くしたモーツアルトが至高のフーガを完成させる。それが、2台のクラヴィーアのためのフーガ ハ短調 KV 426である。モーツァルトの自筆譜の表紙には、Fuga a Due Cembali の題と共に di Wolfgango Amadeo Mozart mpia Vienna li 29 decembre 1783と記されている。ちなみに最後の数字は2を3に訂正した跡があり、第一チェンバロの左手はテノール記号で書かれている。これはバロック時代の習慣に倣ったもので、ヴァン・スヴィーテン男爵のサークルを意識したものと考えられている。1788年、ヴィーンのフランツ・アントーン・ホフマイスターから出版された際には、ヘ音記号に改められた。ちなみにこの曲には強弱記号が全く付けられていない。モーツァルトは、コンスタンツェの実家にあった2台のフリューゲルを念頭に、あえてチェンバロのために作曲したのではないかと考えられる。
 1788年6月26日、1784年2月から記録を始めた自作の全作品目録に、一つの曲が加えられる。「私がかなり以前に2台のクラヴィーア用に書いたフーガのための2つのヴァイオリン、ヴィオラ、バスによる短いアダージョ」である。原語では、Ein kurzes Adagio. à 2 violini, viola, e Baßo, zu einer fuge welche ich schon lange für 2 klaviere geschrieben habe. と記載されていて、弦楽四重奏の体裁になっている。ところが、フーガの110小節以降のBaßoパートは VioloncelliとContrabassi (それぞれVioloncello、Contrabassoの複数形)が分けて記載されており、複数のチェロとコントラバスを含む弦楽オーケストラを意識して作曲されたことがわかる。編曲にあたっては、第1クラヴィーアの右手を第1ヴァイオリン、左手をヴィオラに、第2クラヴィーアの右手を第2ヴァイオリン、そして左手をバスに担当させて、その楽器順に書き出したが、8小節を書いたところでこれらを削除し、通常通り、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、バスの順に書き直している。また、フーガのテンポ表示はAllegro Moderatoと記載されたが、後でModeratoが激しく消されている。これは何を意味するのであろうか。プレリュードとフーガ ハ長調 KV 397 (383a) の演奏に際し、モーツァルトが姉に伝えたように、フーガは速く弾いてはならない、ということを言いたかったのであろうか。しかし、AllegroとAllegro Moderatoであれば、一般的には後者の方が遅いテンポである。姉に手紙を送った1782年から6年が経過している。考えに変化があってもおかしくない。彼の心の内面に鬱積した感情を表現するために、逆に速いテンポを指定したとは考えられないであろうか。このころのモーツァルトはヴィーンでの人気も陰りが見え始め、経済状況も悪化してきた。二人の親友、父、長女マリーア・テレージアを相次いで失い、新作の弦楽五重奏曲集(ハ短調KV 406 (516b)、ハ長調KV 515、ト短調KV 516)は売れず、貴族の邸宅での演奏会にも呼ばれなくなっていた。ちょうどこのころからプフベルクにたびたび借金を申し入れるようになっている。しかし、この時期のモーツァルトの創作意欲は極めて旺盛で、精力的に作曲に打ち込んだのは、この時期に数々の名曲が生まれていることからわかる。この曲が作曲された同じ6月26日の日付で交響曲(第39番)変ホ長調 KV 543、小行進曲 ニ長調 KV 544、初心者のための小クラヴィーア・ソナタ ハ長調 KV 545が作曲されている。その後、7月14日には、クラヴィーア、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲 KV 548、7月25日には交響曲(第40番)ト短調 KV 550、8月10日にはモーツァルト最後の交響曲となる(第41番)ハ長調 KV 551が作曲されるのである。
 アウエルンハンマーは、1786年に役人のヨーハン・ベッセニヒと結婚し、その後もブルク劇場や内輪の集まりで定期的に演奏会を行った。モーツァルトは彼女にピアノ奏法だけでなく音楽理論や作曲技法も教授していた。彼女は、クラヴィーアのためのソナタのほか、数多くのクラヴィーアのための変奏曲やデュオ、クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ、ドイツ歌曲などを残した。その中でもっともよく知られているのが、モーツァルトのオペラ「魔笛」の第1幕、第2曲パパゲーノのアリア「おいらは鳥刺し」によるクラヴィーアのための6つの変奏曲 ト長調 KV 6 Anh. C 26.18 である。ケッヘル番号(KV)のAnh. Cは、当初モーツァルトのオリジナル作品と考えられた曲が、研究の結果、モーツァルトの作品ではないと判定された、いわゆる偽作であることを意味しており、26はクラヴィーアのための変奏曲が集められている。ちなみにケッヘルカタログにはC 26.18 „Air (620, Nr. 2) varié“ in G-dur: Offenbach, André (von J. Aurnhammer [?]; vgl. Weinmann, Artaria, Pl.-Nr. 373)とだけ記載されている。この曲は、モーツァルトの死後、1793年に出版された。アウエルンハンマーは、1813年3月21日、ブルク劇場において、アウエンハイムの名前で声楽や作曲を教えていた娘マリアンナの共演で、引退公演を行なった。その7年後、1820年1月30日、ヴィーンで没した。62歳だった。

(2013年8月19日)

 


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