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解説

オルフェとウリディスより2つの踊り

2011年10月9日 日曜日

大阪モーツァルトアンサンブル 武本 浩 (第53回定期演奏会より)

グルックは、華やかな声楽技巧を披露することに重きを置かれていたオペラを「音楽劇」にする、いわゆる「オペラの改革」を行った。改革オペラの代表作である「オルフェオとエウリディーチェ」(イタリア語)は、1762年10月5日、皇帝フランツ1世の命名日にヴィーンのブルク劇場で初演された。皇女マリア・アントーニアにクラヴサンやハープを教えていたグルックは、1773年、ルイ16世に嫁いだマリア・アントーニア改めマリー・アントワネットに従ってパリに移住する。パリでこのオペラを上演するために、当地の楽団に合わせてオーケストレーションを変更し、声楽曲や器楽曲を追加するなど大規模に改訂した。1774年8月2日、パリの王立音楽アカデミー(オペラ座)で「オルフェとウリディス」(フランス語)は初演された。オペラのあらすじは次の通りである。妻ウリディスの葬儀で幕が開ける。妖精や羊飼いが、香を焚き、花を撒き散らして哀悼の歌を歌う。一人になったオルフェは、妻の名を叫ぶ。オルフェは、神々の冷酷さに激怒し、ウリディスを神々から奪い返し、この世に連れ戻す決心をする。愛の女神アモーレが登場し、復讐の女神たちを歌で鎮めることができるなら、ウリディスを連れて帰れるという。ただし、この世に戻ってくる前にウリディスを見てしまったら、今度は永久に妻を失うことになると警告する。黄泉の世界の入口で、オルフェは復讐の女神と悪霊たちに執拗に威嚇されるが、復讐の女神たちはオルフェの嘆願に次第に心を動かされ、黄泉の国への道をあける。ここで挿入される音楽がパリ版で追加された「復讐の女神の踊り」である。これは自作のバレエ「ドン・ジュアン」(1761年)から引用されたニ短調の大規模な恐怖の踊りである。最後の10小節で転調を繰り返して最終的にはニ長調に変わり、場面は黄泉の国から天国(シャンゼリゼ)の野原へと情景が移る。そこでは「幸福の精霊たちの踊り」が繰り広げられている。この曲は、伝統的なパストラーレの調であるヘ長調で書かれ、レントの速度表示にフランス語で「とても優しく」と追記されている。「同じテンポで」との指示があるニ短調の中間部と主部の繰返しは、ヴィーン版にはなく、パリ版で追加された。精霊たちに導かれて来たウリディスをオルフェは急いでついて来るよう促す。オルフェのよそよそしい態度に不審を抱くウリディス。「どうして黙っているの、なんという逆境」オルフェは耐えられず、振り返ってウリディスを見てしまう。その瞬間、彼女は死んでしまう。オルフェは絶望し、自ら命を断とうとしたとき、再び愛の神アモーレが現れ、オルフェは自らの誠実さを充分証明して見せたと言って、ウリディスを生き返らせる。アモーレの神殿でオルフェ、ウリディス、アモーレ、羊飼いたちと女羊飼いたちが喜びを祝って幕を閉じる。グルックは、その後ヴィーンに戻り、1787年11月15日に亡くなった。モーツァルトが10月29日、プラハで「ドン・ジョバンニ」KV 527を初演し、ヴィーンに戻った翌日だった。グルックが死去したため、皇王室宮廷音楽家の称号はモーツァルトに与えられ、12月1日から年棒800グルデンが支給されることになった。(ちなみにグルックの年棒は2000グルデンだった。1グルデン=1フローリン銀貨=60クロイツァー銅貨、1ドゥカーテン金貨=4.5フローリン銀貨)モーツァルトの父、レーオポルトは息子のオペラ上演の妨害をしたとしてグルックに対して警戒心を持っていたが、グルックはモーツァルトを高く評価しており、たびたび食事に招待していたことが、モーツァルトの手紙で明らかになっている。また、モーツァルトは、東方に舞台をとったグルック作曲の「メッカの巡礼たち」からヒントや刺激を得ており、トルコ近衛兵軍楽をヴィーンにおけるデビュー作で活用した。モーツァルトがグルックに敬意を表して作曲した「メッカの巡礼たち」のアリエッタ「愚民の思うは」による10の変奏曲KV 455は、1783年3月23日、ブルク劇場で行われたヨーゼフ2世の御前演奏会でハフナー交響曲とともに演奏された。

 

第53回定期演奏会より
オルフェとウリディスより2つの踊り[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=ie8q2acDry4&feature=youtu.be[/youtube]

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